ヒマラヤ
山と人、そして自然保護
HAT−Jエベレスト街道
清掃トレッキングに参加して

目次
1.トレッキングは「大名旅行」だ
2.エベレスト街道を行く〜その1
3.HAT−J集会
4.エベレスト街道を行く〜その2
5.ネパール住民の生活
6.大きな反響を呼んだ清掃トレッキング

トレッキングは「大名旅行」だ

 「ハロー。モーニング。ティー。」
 朝6時、この声でトレッキングの朝が始まります。キッチンボーイがティー(紅茶)の入ったアルミのヤカンと500ccほども入るステンレスのカップをもって、起こしに回ってきます。テントのファスナーを開けると、日に焼けた笑顔があります。
 「シュガー? ミルク?」
 私は、「ノーシュガー、ノーミルク。」
 同居の鈴木氏は、「シュガーワン、ノーミルク。」
 温かい紅茶を飲み終わると、今度は洗面器が運ばれてきて、お湯を注いで行きます。キッチンボーイ達は、このために私たちよりも何時間か早く起きて、火をつけ、湯を沸かしているのです。
 7時から朝食。30人位入れる大きなテントが2つ張ってあって、そこに14人づつ入ります。(人数が少なければ、椅子とテーブルも出るそうです。)すぐに朝食が運ばれてきます。おかゆ、味噌汁。これにパン、ジャム、チーズなど。漬物はありません。日本から持ち込んだタクアンが2度出ただけです。終わるとすぐに、食器が片づけられ、タトパニ(熱湯)とティー、ホットミルクに、インスタントコーヒーとパックのほうじ茶が添えられ、運ばれてきます。思い思いに注いで飲みます。
 8時に歩き始めます。シェルパ(道案内人)は、私たちと同行しますが、キッチンボーイたちは、片づけた食器を洗い、カゴに詰め、ポーター(荷物かつぎ人)たちは、私たちのザックやテントなどの大きな荷物をゾッキョ(ヤク)につけたり、自分たちでかついだりして、後から出発します。この後から出発したキッチンボーイ、ポーター、ゾッキョが、途中で私たちを追い抜いて行きます。
 昼近くになると、ちょうどよい広場に、さっき追い越して行ったキッチンボーイなどが、シートを広げ、お湯を沸かして待っていてくれます。私たちが到着すると、広げられたシートに絞りたてのオレンジジュースを温めたものが運ばれてきます。グッドタイミングです。ちょうどジュースをを飲みほす頃、昼食が運ばれてきます。まことにタイミングがいいのです。昼食は、パンとジャガイモとハムに野菜サラダ。終わるとタイミングよく、またティーが出てきます。そのタイミングのよさには驚かされます。
 昼食時間は、1時間から1時間半位で、その日の行程によって前後します。昼食が終わると、朝と同じように私たちが先に軽いザックをかついで出発します。すると、彼らはまた、荷物をまとめて後から出発し、途中で追い越して、宿泊地に先に着いて、準備をし、私たちを待ってくれるのです。
 夕方、宿泊地に着くと、さっそくいくつかの洗面器にタトパニが出され、手を洗います。そして、紅茶が運ばれ、それにクラッカーなどが添えられています。その間にシェルパが、テントを張ってくれます。ゾッキョにつけられてきた荷物は、中央に集められているので、自分のザックをさがし、テントに取り込みます。これでもう、夕食まで何もすることがありません。夕日をながめたり、絵を画く人、寝る人、さまざまです。
 夕食が出きると、声がかかります。食事は、最初にスープが出てきます。終わると、ご飯、ダルスープ(豆の辛いスープ)、サラダなどが出され、その後、缶詰のフルーツが必ずつけられます。そして最後に、ティーが出て、おしまいです。
 私たちがテントにもどって眠りにつく頃、キッチンボーイたちは、食器を片づけています。そして、シェルパたちは、交代で夜通し、夜警をしてくれます。
 ネパールのトレッキングは、私たち外国人にとってまさに「大名旅行」です。

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エベレスト街道を行く(その1)

 清掃トレッキングの参加者は、HATーJ代表の田部井淳子さんを含めて28名、男性10人、女性18人。73才と65才の老夫婦を筆頭に3組の夫婦が参加し、最年少は、27才の女性で、平均年齢は、40代半ば。これに、3人のサーダーと8人のシェルパ、コック2人に数人のキッチンボーイがつき、総勢50名を越す大部隊です。
 11月11日、ノースウエスト機で成田を出発。6時間のフライト、時差2時間で、23時バンコク着。12日9時発のロイヤルネパール航空は、半日遅れて19時30分にバンコクを発ち、3時間後の21時15分、ネパールの首都カトマンズに到着しました。日本との時差は、3時間15分です。13日は、午前中にラマ教寺院やヒンズー教寺院などを観光し、昼は、NMA(ネパール登山協会)主催の昼食会です。夜は「HATーJカトマンズ集会」と晩餐会と忙しい一日でした。
 14日、いよいよトレッキングの開始です。15人乗りのプロペラ機2機に分乗してルクラ(2827m)に飛びます。ルクラ飛行場の滑走路は、全長400mで未舗装です。砂煙をあげて着陸し、右手の広場に入ります。飛行機が止まると、牛や人が滑走路を横切ります。飛行場の周辺は、帰りの便を待つ人と、仕事を求めるシェルパとポーターでいっぱいです。ここで、これからのトレッキングを世話してくれるシェルパたちと合流します。12時、ルクラからドードコシ(コシ=大きな川)の上流に向かって下っていきます。2時間ほど歩くと、右手の山間に白い雪山が見え始めました。クズミ・カングルー(6369m)です。バルマというピンクの大きなダリアのような花が咲いています。15時40分パクディン(2652m)着。今日は、ここで泊りです。
 15日、以前バッティと呼んでいたホテルをいくつか通り過ぎ、ベンカール(2905m)に着きます。この辺りからは、タムセルク(6608m)が勇壮な姿を見せてくれます。ドードコシまで一気に200mほど下り、橋を渡って対岸へ。そして右手から下りてくるキャシャル・コーラ(コーラ=小さな川)を渡り、150mほど登り返して、モンズー(2835m)に着きます。このすぐ先のジョサレ(2805m)にチェックポストがあり、ここでサガルマータ国立公園の入園料650ルピー(1950円)を支払います。ゲートから急に下るとつり橋があり、これを渡ります。もう一度橋を渡ったところに、シートが広げられていました。昼食です。
 昼食がすんで歩き出すとすぐに、前方の峡谷につり橋がかかっているのが見えます。谷底から50mはあるでしょうか。長さは100m近くありそうです。そばに行くと、風で湾曲しているのがわかります。調子をとって渡れば大丈夫です。このドードコシとボーテコシの合流点からナムチェバザール(3446m)へは、一気に600mあがります。シェルパは、「ビスターリ(ゆっくり)、ビスターリ」といいます。日本の山なら1時間ほどですが、それでは高度に順応しないため、高山病になる危険性があります。2時間ほどかけて登りましたが、それでもまだ早すぎ、夜、何人も頭痛に襲われてしまいました。

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HAT−J集会

 トレッキング中、カトマンズ、ナムチェ、ルクラの3カ所で集会を行いましたが、これはたいへん意義のあるものでした。
 カトマンズでの集会には、ネパール政府観光省の次官、観光業者、自然保護団体の代表などが出席し、マスコミも多いに注目していました。一連のセレモニーの後、参加者からさまざまな質問が出されました。日本語の質問、ネパール語の回答、通訳が大活躍です。英語で質問が出ると、三元中継になります。この中で、山岳地帯のゴミに対するネパール政府の考え方や、カトマンズ市内のゴミ処理など、今まで知られていなかったことがわかりました。観光業者も、マキ使用の禁止、石油の使用を推進しているといっていました。
 ナムチェの集会は、タンボチェの僧院のリンポチェ(高僧)、ナムチェの村長、サガルマータ国立公園のレンジャーが出席して開かれました。リンポチェは、HATーJがここにやってきた理由を聞き、「すばらしいことだ」と賞賛し、「最近、くる人が多くなってゴミもふえた」ことなどを話していました。村長は、行政として、「毎日、村内の清掃をしている」こと、「エベレストBCから、2回ゴミをおろしてきた」ことなどを話し、レンジャーは、「自分のゴミを持ち帰るということは、いいことで勉強になった。シェルパやポーターにもこのシステムを教えていきたい。」とその抱負を語っていました。また、トレッカーが持ち込むゴミでいちばん困るものは、電池(ネパール国内には処理施設がない)とビン(ガラスの破片で人間だけでなく、家畜もケガをすること、ケガをいても医者がいない)だといわれていました。
 ルクラでは、集会に先立って飛行場(小学校のグランドほど)周辺の清掃を行いましたが、その量の膨大さにあきれてしまいました。集会には、村長をはじめ、ヒマラヤクラブの会員、田部井さんとともにサガルマータの頂上に立ったシェルパのアンツェリン氏、それに学校の先生方など18人が参加してくれました。ここの人たちのゴミに対する悩みはたいへん大きいものがありました。「ルクラは、エベレスト街道の入り口で人口も多いが、清掃などに使える資金が何もない。金を出し合ってヒマラヤクラブをつくったが、限界がある。」というもので、一見、消極的なように見えました。しかし、「日本から焼却炉を持ってきて設置できないか」などと突っ込んで話していくと、「土地を確保したい」「コンテナを置いてそこにゴミを捨てさせよう」などと話しが進みました。
 私たちは、ヒマラヤのそれももっともトレッカーの多いエベレスト街道をゴミ袋を持ってゴミを拾いながらトレッキングし、各地で集会をもったわけですが、こういうことは、前代未聞のことで、行き交う住民やトレッカーに大きな影響を与えたことは確かなようです。これからヒマラヤ登山やトレッキングをする場合、自ら「持ち込んだものは全部持ち帰る」だけでなく、同行するシェルパやポーターにも協力を訴えていくことが必要だろうと思います。
 日本の山においても、「持ち込んだものは全部持ち帰る」のは、当然のことだと思いました。
 実践的にアタックすることによって多くのことを学んだトレッキングでした。

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エベレスト街道を行く(その2)

 16日は、高度順応のためにナムチェに滞在しました。午前中、サガルマータの見える丘に登りました。右から、アマダブラム(6856m)、ローツェ(8501m)、サガルマータ(8848m)、ヌプツェ(7879m)が、そびえています。8000m峰の偉容にしばし声も出ません。その後、サガルマータ博物館を見学し、3800mのシャンボチェの飛行場にあがりました。この上には、日本人が経営するエベレスト・ビュー・ホテルがあります。
 午後は「HATーJナムチェ集会」。
 17日は、ラマ教のゴンパ(寺院)のあるタンボチェ(3867m)に向かいました。等高線に沿ってつけられたような道をたどります。道が右に張り出したところでは、サガルマータが見られます。それが、一回毎に大きくなっていくのです。カンテガ(6685m)から派生する尾根の末端にタンボチェのゴンパが見えます。そのうち、水平道がぐんぐん下りだします。道は、ラリーグラス(シャクナゲ)と赤樺の林の中を下り、そして、ドードコシとイムジャ・コーラの合流点プンキテング(3300m)に着きます。ここで昼食。
 ここからタンボチェまでの登りも標高差500m以上あってきついところです。太さ20cmもあるラリーグラスの林をぬって登っていきます。やがて傾斜が緩くなり、斜めに一直線の道に入ると、もう稜線はすぐそこです。ゴンパの門が見える頃、左手の潅木の中で「バサバサッ」と音がしました。ちょうど通りかかった人に聞くと「ダーペー」といいます。七面鳥位で、緑と青の羽、頭上に孔雀のような冠をもった美しい鳥です。カメラを向けましたが、逃げ足が早いのと夕闇のために撮れませんでした。
 タンボチェのゴンパは、ラマ教のこの辺りの総本山ですが、数年前に焼失してしまい、現在再建中です。建物は色鮮やかですが、仏像も何もかもなくなってしまったとのことでした。
 タンボチェは、3867mありますから、高山病は、ナムチェよりもいっそう激しくおそってきます。3人が重症の高山病にかかってしまいました。
 18日、快復しない重症の2人は、強力を雇い、ラウシローサ(3400m)まで背負って降ろしてもらう(1人は自力)ことになりました。他は、パンボチェ(3901m)を往復しました。パンボチェのゴンパは、雪男の頭皮があったことで有名な寺院でしたが、日本のテレビで放送した後、盗まれてしまい、お目にかかることはできませんでした。「日本人が盗んだ」との評判でした。
 部落の上まで行けば、4000mを越えるということで、元気のいいものだけが行きました。ここまでくると、山々は、手に取るようです。
 今回のトレッキングは、ここまでです。エベレストのベースキャンプまでのちょうど半分という所です。
 ところで、高山病ですが、自力で降りた1人は、この日すっかり快復して、「高山病なんて誰がかかったの」という具合です。他の2人は、まったくダメで、ルクラまでもどっても快復せず、結局、カトマンズまでもどってやっと快復しました。高山病は、恐いものですが、低地にもどれば、何事もなかったかのようになおってしまいます。

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ネパールの人々の生活

 ネパールが「お釈迦様の生まれた国」ということは、意外と知られていません。今でも仏教(ラマ教=チベット仏教)は盛んで、ヒンズー教と拮抗しています。「あなたは、仏教徒ですか」と聞かれて、安易に「はい」とは答えられません。私たちは、彼らが考える「仏教徒」とは違うからです。
 ネパールには、シェルパ族、ネワール族、グルカ族などたくさんの種族がいます。その種族によって信じる宗教が違い、そしてその上に、カースト制があります。こうした複雑な状況は、日本人にはとても理解できません。私たち登山隊やトレッキング隊の世話をしてくれるシェルパは、もともとはシェルパ族のことです。彼らは、最下層のカーストに位置づけられていますが、ラマ教徒が多いため、そのことはほとんど気にしていません。カースト制はヒンズー教と結びついているようです。
 カトマンズは、10年前には、市の人口50万人、盆地全体で100万人といわれていましたが、今は、市内で100万、盆地全体で200万にふくれ上がっていました。ネパールの全人口が1900万ですから、かなりの一極集中です。頚城平野位の大きさの盆地に古都パタン、バドガオンがあり、日本でいえば東京と京都と奈良が同居しているようなものです。
 カトマンズの標高は1500m、11月で日中の気温が25℃、朝は冷えて5〜8℃です。しのぎやすい気候といえるでしょう。Tシャツに短パン姿から、純毛セーターにマフラー姿ありで、ちょっと目には、暑いのか寒いのかわかりません。ルクラでは、日中20℃位。ナムチェは、17〜8℃、タンボチェで、15℃程度ですが、天気がいいので体感温度はもう少し高く感じます。
 カトマンズの繁華街は人であふれ、狭い道路を車やリキシャが行き交い、牛が寝そべっていたりします。牛は聖なる動物ですから、車が避けて通ります。それでも以前からみれば少なくなりました。いったん、カトマンズを離れると、状況は一変します。私たちが行ったエベレスト街道も、自動車道路はありません。日本の北アルプスの登山道を歩いているような感じです。エベレスト街道で会った人たちを見ると、半分位は裸足、残りの半分がサンダル、残りが運動靴といったところです。
 街でも村でも食事は質素ですが、たくさん食べます。ポーターたちは、鍋で湯を沸騰させ、そこにトーモロコシ、稗、粟、小豆、そばなどの粉を入れ、団子にして食べます。私たちが行った頃は、小豆団子でした。米は長粒種で、15mmほどあります。これを水加減せずに鍋で煮て、炊きあがると湯を全部あけて蒸らしますので、パラパラになります。ご飯や小豆団子を20cmほどのお皿に山盛りにしてまたたく間にたいらげてしまいます。おかずはありません。
 生活物資は、比較的豊富です。物価は日本のほぼ10分の1、大学卒(大学は1つしかなく、明治か大正の頃の日本の大卒と同じくらい地位が高い)の初任給が日本円にして約5万円といいます。ですから、輸入品はたいへん高く見えます。私たちが雇ったポーターの日当は、200ルピー(600円)、高山病にかかった人をかついで下ろしてくれた強力で、600ルピー(1800円)です。相当に安い賃金といえます。だからこそ私たちが行って「大名旅行」ができるのですが。

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大きな反響を呼んだ清掃トレッキング

 最後になりましたが、今回の清掃トレッキングの目的についてお話しておきましょう。
 1990年、女性で最初のエベレスト登頂者である田部井淳子さんらの呼びかけで、ヒマラヤの環境保護を考え、実践する団体としてHATーJ(ヒマラヤアドベンチャートラストオブジャパン)が結成され、(前年に、エベレスト初登頂者のヒラリー卿の呼びかけでHATがつくられました)その主要な取り組みの一つとしてとして、今回の清掃トレッキングが企画されたのです。
 このトレッキングは、首都カトマンズ、シェルパの街ナムチェバザール、そしてエベレスト街道の玄関口ルクラで現地の人々との対話集会を持ち、トレッキング中に街道のゴミを拾って清掃をしたり、自分達の持ち込んだものは全部持ち帰るということを通じてヒマラヤ、とりわけエベレスト街道の環境保護を世界とネパール国民にアピールすることを目的にしていました。
 「自分達の持ち込んだものは、全部持ち帰る」というのは、まず、「ゴミを出さない。捨てない。」ということです。これは、環境保護の基本で、一人一人が気をつけることによってかなりの効果が期待できます。私たちは、このことをシェルパにも理解してもらい、炊事で生じるゴミ、トイレの紙など燃えるものは燃し、空きカン、空きビンは全部カトマンズまで持ち帰りました。
 「トレッキング中に街道のゴミを拾って清掃をすること」は、私たち上越こぶし山の会が以前取り組んでいた妙高山の清掃登山のヒマラヤ版です。一人一人がゴミ袋を持ち、道路わきのゴミを拾って行きます。燃えるゴミは、その日の夕方、宿泊地で焼却し、焼却できないカンとビンはポーターに担いでおろしてもらいました。このゴミを拾うという行為は、私たちトレッカーだけでなくサーダーを通じてシェルパにも徹底してもらいました。彼らも意義を理解したのか、積極的にゴミを拾い集めていました。拾い集めたゴミの量は、ルクラでの集計で250Kgにもなりました。
 私たちが清掃しているということは、ネパールのラジオで放送されたらしく、行き交う人の何人かから声をかけられました。ナムチェからの下りでは、急斜面のゴミを拾っている人に出会いましたし、ルクラの飛行場周辺を清掃しているときには、周辺の子供達が一緒になって清掃してくれました。
 長くて短いトレッキングでしたが、機会があれば、再訪したいと思います。

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