ヒマラヤ
山と人、そして自然保護
HAT−J
エベレスト街道清掃トレッキング


1992年11月11日〜25日



1.HAT−Jとは  清掃トレッキングに参加した動機
2.あこがれのネパールへ  トレッキングコースの概要と参加者
3.ネパールという国  お釈迦様の生まれた国  ヒマラヤと熱帯
4.カトマンズの一日  ボドナートとパシュパティナート
5.民主化一年  何が変わったか  インドからの脱却、そして王政
6.HAT−Jカトマンズ集会  役人カトマンズ
7.いよいよトレッキング開始  サガルマータへの玄関・ルクラ
8.トレッキングの一日
9.最高齢参加者 O氏夫妻のこと
10.シェルパの街ナムチェバザールへ
11.高山病あらわる
12.HAT−Jナムチェ集会  積極的なナムチェ
13.サガルマータの見える丘  ミューゼアム  日本人の経営するエベレストビューホテル
14.タンボチェへ
15.高山病、その2
16.パンボチェのゴンパ  盗まれた雪男の頭皮
17.学校教育  学校へ行かない子供たち
18.HAT−Jルクラ集会  ルクラの悩み
19.シェルパとともに トレッキング最後の夜
20.清掃トレッキングの反響 エベレスト・コーポの招待
21.日本人に何ができるか 国際貢献について考える
22.持ち込んだものは持ち帰る。ものは捨てない。 日本の山でも
23.終わりに




HAT−Jとは
清掃トレッキングに参加した動機

 今回のトレッキングに参加する動機について話しますと、10年前のことにふれなければなりません。
 ちょうど10年前の1982年10月、ネパールの首都カトマンズでUIAA(国際山岳連盟)の総会と50周年記念集会が開かれました。このUIAAの集会に、日本勤労者山岳連盟は、「ヒマラヤの環境保護」について訴えるために、代表団を派遣しましたが、その代表団の一員として、私もネパールを訪れていました。当時はまだ、今ほど地球環境についての意識は高くはなく、私たちの精力的な活動にもかかわらず、訴えは、単なる提案に終わらざるを得ませんでした。
 その後、日本だけでなく世界的に、酸性雨の問題とか、オゾン層破壊の問題とか、地球環境問題がクローズアップし、多くの人たちの目が環境問題に向くようになってきました。こうした時に、エベレストの初登頂者であるヒラリー卿、全8000m峰登頂者のメスナー氏、それに日本の田部井淳子さんなど著名な登山家が呼びかけHAT(ヒマラヤアドベンチャートラスティ)が結成されました。このHATは、著名登山家の呼びかけだけに登山界に新風を送り込み、ヒマラヤの環境問題を一気にクローズアップさせたのです。
 このHATの動きに呼応して、日本国内でも機運が高まり、田部井淳子さんを代表に日本の主要山岳組織を網羅してHAT−Jが結成されました。
 HAT−Jは、昨年、世界の著名登山家を呼んで、東京、富山などでキャンペーンの集会を開いてきました。そして、今年の主要な活動として今回の「清掃トレッキング」が企画されたのです。私は、この企画を聞いた時、すぐに参加したい気持ちでいっぱいになりました。10年前にカトマンズで訴えたことを実践できる場が生まれたのですから。
 もちろん、このトレッキングに参加しようと思ったのは、それだけではありません。当然、ヒマラヤを見たい、特にエベレストを見てみたいという強い気持ちがありました。日本人のふるさとのようなネパール。幼い頃の日本を思い出させるネパール。陽気な人々、彼らとのふれあい....。行きたい気持ちはつのるばかりでした。
 しかし、海外登山、トレッキングに参加するには、克服しなければならない問題がいろいろあります。中でも休暇は大問題です。今回のトレッキングも15日間ですから、これだけの休暇を取得しなければなりません。幸い、私の勤務する会社の上司は、有給休暇の請求に快く、OKのサインをしてくれました。たいへんありがたいことだと思っています。

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あこがれのネパールへ
トレッキングコースの概要と参加者

 11月11日、いよいよ出発です。朝7時の高速バスで東京へ。いったん上野に出て、京成電鉄で成田空港へ。
 こうしたトレッキングの常として、事前の説明会に出席していないと、集まってみるまで同行者の顔がわかりません。私も説明会に出席しなかったものですから、有名な田部井さん以外、誰もわかりません。ノースウェストのカウンター前が集合場所です。まだ、誰も来ていないようです。しばらくして、ちらほら、それらしき姿があらわれます。声をかけるとやっぱり。こちらも安心、むこうも安心。
 参加者は、総勢28名。田部井代表をはじめ、女性が圧倒的に多く18名。男は、添乗員も含めて10名です。最高齢は、73才のO氏、ご夫妻での参加です。夫婦は、この他に40代後半のY氏、30代前半のK氏、このK氏は、イギリス人です。最年少は、S嬢。40代が大半という構成です。HAT−J事務局長の神崎氏もトレッキングに参加することになっていたのですが、所用で、カトマンズ集会に参加して帰国するというハードスケジュールで同行しました。
 ノースウェストNW27便は、10分遅れて19時ちょうどに成田を出航、長い空の旅が始まりました。バンコク到着は、深夜になりますから、機内食を食べた後は、もう寝るだけです。安定した飛行で6時間、時差2時間で、11日23時40分にバンコク着。晩秋の日本、氷雨の高田から、熱帯夜のバンコクですから、たいへんな暑さです。
 12日の10時40分発ロイヤルネパール航空RA408便は、半日出航が遅れるということで、予定になかったバンコクの市内観光をすることになりましたが、これは、本題ではないので割愛します。
 辛いタイ料理の昼食の後、早々に空港入りし、喫茶店を占領して打ち合わせと休息です。19時30分、ようやくRA便に乗り込みます。RA便は、NW便と比べるとかなり小さく、機内もたいへんせまく感じます。同じ便で他に2つの日本人パーティが乗りましたので、50人ほどの日本人でしばらく日本語が飛び交います。フライト3時間時差1時間15分で21時30分、カトマンズのトリブバン国際空港に着きました。着陸と同時に女性陣から拍手と歓声がわきおこります。夏に事故が起きていますから、無事着陸への祝福です。
 トリブバン空港は、10年前とは、まったく一新され、赤レンガ造りのこざっぱりしたターミナルビルが新鮮です。3年前にどこかの国の援助で建てられたものだそうです。
 旅行会社の支店長が出迎えにきており、バンに荷物、マイクロに人が乗り、夜の道路を市内へ。ホテルは、王宮近くのシェルパ・ホテルです。このホテル、中の上ということで、まあまあの設備です。部屋は、2人部屋で、鈴木敬吾氏と相部屋です。彼とは、この後帰国まで、テントもずっと2人組となります。

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ネパールという国
お釈迦様の生まれた国
ヒマラヤと熱帯

 ネパールというのは、どんな国でしょうか。
 世界最高峰のエベレスト(8882m)がある国というのは、ご存知でしょう。このエベレストというのは、旧支配国イギリスがつけた名前で、ネパールでは、「サガルマータ」といいます。最近は、中国名の「チョモランマ」が有名です。一つの山に3つの名前があるのです。
 ネパールは、沖縄から台湾ほどの緯度に位置し、東西500Km、南北150Km程のほぼ長方形をしています。北は、中国のチベットに接し、8千mの高峰が連なり、ヒマラヤ山脈を成しています。これらの高峰の間にいくつかの峠(とはいっても、5千m以上です)があり、チベットとの交易が行われています。他の3方は、インドに接しており、南のインドの影響は、たいへん強いものがあります。ネパールのほとんどの河川は、北から南に流れており、最後は、母なるガンジスにそそぎます。川はいずれも急流で、深い谷になっていて、東西の交通を遮断しています。そのために分断された地域ごとにインドとの関係が発達したといいます。
 ネパールは、発展しはじめたばかりの発展途上国です。南部に若干の工業が発展しつつありますが、圧倒的に農業国で、北部は完全な高地農業です。北部の山岳地帯の大部分は、いまだ電気のない生活で、首都カトマンズでも隔日に夕方5時から7時まで停電します。日中は、もちろん停電です。
 お釈迦様が生まれたところが、ネパールであるということは、意外と知られていません。中南部のインド国境近くのルンビニが生誕地です。このルンビニを含め、ネパール南部は、標高数百m以下の低地の熱帯林で、チトワン国立公園などには、トラ、サイ、シカ、ゾウなどの野生動物が手厚く保護されています。

 ここで、トレッキングのコースと日程について説明しておきましょう
 トレッキングは、11月11日に成田を出発し、バンコク経由で12日夜、ネパールの首都カトマンズへ。13日は、午前中に市内観光し、NMA(ネパール登山協会)主催の昼食会。夜は「HATーJカトマンズ集会」と晩餐会。14日、空路ルクラ(2827m)入りし、ここからドードコシ川の上流に向かって少し下り、パクディン(2652m)で泊。15日、ジョサレ(2805m)のチェックポストを通過し、ドードコシとボーテコシの合流点から一気に600mあがってナムチェバザール(3446m)へ。16日は、高度順応のためにナムチェに滞在し、サガルマータの見える丘から、サガルマータ博物館を見学し、3800mのシャンボチェの飛行場にあがり、午後は「HATーJナムチェ集会」。17日は、ラマ教のゴンパのあるタンボチェ(3867m)に上がり、「HAT−Jタンボチェ集会」。翌日、パンボチェ(3901m)を往復。19日は、ナムチェを経由してモンズー(2835m)まで下り、20日は、ルクラへ。夕方「HATーJルクラ集会」、そして夜は、シェルパ達とのお別れ会。21日、順調にフライトすれば、カトマンズへ。22日23日はフライト予備日で 、うまく行けば市内観光。(一部は、ポカラまで足をのばしての観光)、23日夜は、ヒマラヤの環境問題を考える青年達の組織エベレスト・コーポの招待夕食会。24日バンコクへ。そして11月25日午後、成田へ着くまでの15日間です。

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カトマンズの一日
ボドナートとパシュパティナート

 カトマンズは、ネパールの首都です。10年前に訪れた時は、市内50万、カトマンズ盆地全体で100万人といわれていましたが、今は、市内100万、盆地全体で200万人と、約2倍にふくれあがっていました。全人口が1000万人ですから、極度の一極集中です。
 カトマンズ市街地は、東西南北各4Kmほど、ちょうど旧高田市街地ほどの小さな街です。周囲を直径6Km程のリングロード(環状道路)がめぐっており、今は、その周辺での住宅建設が盛んです。
 カトマンズのすぐ南には、古都パタンが、空港をはさんで東どなりには古都バドガオンがあります。東京と京都と奈良がかたまっているようなものです。名所・旧跡が多く、ラマ教とヒンズー教の寺院あわせて千近くあるといわれています。
 13日の午前は、日本語学校の校長をしていたというプレムラタ女史の案内で、市内観光に出かけました。全市が観光地ですから、行きたい所がたくさんあって回りきれないので、今回は、2ヶ所だけに限定しました。一つは、ラマ教寺院のあるボドナート、もう一つは、ヒンズー教寺院のあるパシュパティナートです。
 ボドナートは、カトマンズ市の郊外、東の山の手にあります。旅行会社のマイクロバスで人混みをかき分けていきます。よくこの人混みの中を運転できるものだなあと感心します。
 ボドナートの寺院は、目玉寺とも呼ばれる、大きなストーバです。直径数十mほどの大きなおそなえの上に3m角ほどのサイコロがのり、その上に三角帽子をかぶせたような形をしており、このサイコロの東西南北四面に大きな目玉が描かれているのです。サイコロと三角帽の間から周囲にロープが張られ、これに経文を書いた色とりどりの小布がつけられています。おそなえの一段目までは誰でもあがれます。二段目の下の方には、一周百八つの仏様が安置されています。この壇上からは、町並みを通して遠く、白い雪をかぶったヒマラヤの山なみが望まれます。
 このストーバを囲んでチベット人のみやげ物屋が軒を並べています。下に降りてストーバを時計回りに回って外にでました。
 パシュパティナートは、ボドナートのすぐ南にあるヒンズー教の聖地です。バグマティ川をはさんで広がっています。バスを降りて、この川にかかる橋に立つと、下流の方から紫煙が漂ってきて、異様な臭いがします。川岸で死者を火葬している煙なのです。ちょうど二つの火があがっていました。火葬された残りの灰は、バグマティ川に流され、この川は、ヒンズー教徒が母なる川というガンジス川に合流します。橋の上流には、黄色い布にくるまれた死体が横たわっており、近親者が取り巻いていました。 私たちは、異教徒ですから、この聖地内の寺院には入ることができません。対岸の高台から内部を見ることだけが許されています。

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民主化一年
何が変わったか
インドからの脱却、そして王政

 カトマンズの街の中を歩いていますと、赤レンガの塀や壁、政府建物の白い壁などに、色とりどりのペンキでネパール語のスローガンが書かれています。カマとツチのマーク、あるいは太陽のマークなどもたくさんあります。これらは、昨年の民主化闘争とその後の総選挙の名残とのことです。
 民主化闘争は、経済をインドに握られていることからの脱却、インド従属を容認する王政への不満、その王政を支えるパンチャヤト制度の非民主性に対する民衆の怒りの爆発だったようです。「赤い血がしたたり落ちるネパールを握りつぶしているインドの手」を描いたポスターは、このことを如実に示しているようです。
 陽気で温厚なネパールの人々ですが、市民・学生に軍と警察が発砲するに及んで、一気に王政廃止までかかげる大闘争に発展したようです。この時のことを記録した雑誌が、山奥のナムチェのホテルなどにも置いてありました。
 この大闘争で、ネパールは大きく変わりました。いまだに王制ではありますが、王政の支配機構であったパンチャヤトは廃止されてしまいました。総選挙が行われ、議会政治が復活したのです。総選挙の結果は、大変なものです。ネパール国民会議派が第一党、ネパール共産党(ML)が第二党、王制派はまったくの小数に転落してしまったのです。中でもカトマンズ盆地では、ネパール共産党(ML)が圧倒的に強く、第一党だったとのことです。
 それから一年。民主化の影響は、いたる所にあらわれています。まずは、人々の表情が以前にもまして明るく活気があります。街を歩く人々の服装も華やかになりました。映画館は相変わらず賑わっていますが、インド映画一辺倒から、アメリカ映画も上映されるようになったといいます。ホテルのテレビでは、相撲の総集編をやっていました。CMもかなり派手です。
 航空会社は、ロイヤルネパール一社だったのが、ローカル線を中心に数社にふえたように、民間企業が一気にふえたようです。これら民間企業は、社名にわざわざ民間を現す(PVT)をつけています。
 以前のカトマンズでは、大家族が大住宅に住んでいるのが目だちました。前に来た時にお世話になった先生も繁華街のニューロード近くの大住宅に、両親、兄弟、叔父さんたち、祖父母とともに生活していました。今回、その先生の消息を訪ねたところ、大住宅は取り壊され、ビルになり、先生たちは、それぞれ別々に郊外に家を建てていると聞きました。大家族制の崩壊です。
 発展途上国のネパールは、まだまだこれからたいへんでしょう。経済的に進んでいるカトマンズとその周辺地域、南部の一部工業地帯。それに比べ、北部山岳地帯の遅れはひどく、ますます格差が広がっているように見えます。人々は、現金収入を求めてカトマンズに集まり、東京以上の一極集中が進む可能性があります。

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HAT−Jカトマンズ集会
役人カトマンズ

 13日、午前の市内観光が終わった後、ホテルの向かいのレストランで、NMA(ネパール登山協会)主催の昼食会が開かれ、参加者全員が招かれました。会場は、熱い太陽がさんさんと降り注ぐ屋上です。NMAの役員をはじめ、政府観光省の役人、シェルパたち、それに多数のマスコミ関係者が顔をそろえています。主役はもちろんHAT−J、中でも田部井淳子さんが中心です。来年、インド隊と一緒にサガルマータに挑戦するというシェルパニ(女性シェルパ)も、話題の中心でした。
 夕方から、HAT−Jの最初の集会、「カトマンズ集会」がシェルパ・ホテルの会議室で開催されました。ネパール側は、観光省次官のミナ・カナル女史、観光省のP.M.シュレスタ氏、キング・マヘンドラ・トラストのR.K.シュレスタ氏、エベレスト・コーポのアディカリ氏が、主催者側は、田部井淳子さん、神崎事務局長、藤井氏、大島さん、HETのポカレル氏、それに通訳のミキさんが正面に並びました。会場には、私たちトレッキング参加者とネパールの登山家、それにテレビ、ラジオ、新聞等たくさんのマスコミ関係者で超満員です。
 集会では、最初にポカレル氏が、HAT−Jそのものについて、今回のトレッキングの目的について説明しました。これは、通訳なしです。その後、8月に行われた富士山清掃登山のビデオを上映。このビデオは、ネパールの参加者に大きな刺激を与えたようです。
 集会は神崎氏の司会で、参加者の自由討論という形で進められました。日本側からは、山からおろした場合のゴミ処理の対応、カトマンズ市内でのゴミの収集の問題、木を切らせない指導の問題、美しいネパールを残す課題、登山者やトレッカーが入国することによって生じる問題等について、質問が出され、それぞれ担当ごとに回答がありました。
 ネパール側の回答を聞いていて感じたことは、事務的というか、官僚的というか、「あなた方がおっしゃることはその通りです。私たちは、ちゃんとやっています。」というような感じです。ミナ・カナル次官は、美人でやり手の女性のように見えましたが、発言のたびに書類をひっくり返していました。マスコミが押し掛けてきていて、彼女の発言が、観光省の公式発言ということになるわけですから、無理もないと思いますが、HAT−Jが望んでいたのは、腹の底から本音で話し合いたいということだったのです。
 集会は、日本人は日本語で、ネパール人はネパール語で話します。各国語の間をミキさんが通訳します。これに英語が加わると三元通訳ということになり、三倍の時間がかかってしまいます。この通訳のミキさんは、もともと日本人で、田部井淳子さんと一緒に山に登っていた人です。ネパール人と結婚して、今は、こちらに住んでいます。

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いよいよトレッキング開始
サガルマータへの玄関・ルクラ

 14日、いよいよ清掃トレッキングの始まりです。28人をA班とB班に分けます。カトマンズからルクラへの便は、15人乗りのツィンオッター機です。これを2機チャーターしてありました。A班は、ホテル発6時、一番のフライトです。B班は、8時発です。私はB班でしたが、相部屋の鈴木氏はA班で、結局一緒に起こされてしまいました。
 空港では、刃物のチェックがきびしかったようです。搭乗機の所まで歩いて行きます。その飛行機の小さいのにびっくり。中に入ってその狭さにまたびっくり。左側一列、右側二列の座席の間に狭い通路が通っています。操縦席が丸見えです。それでもスチュワーデスが一人乗っています。
 ガタガタと動きだし、滑走路の中央に進むと、いったん止まって、ウーーーンとうなったかと思うと、もう空中に飛び立っていました。9時10分です。窓から見るカトマンズ盆地は、箱庭のようです。やがて山地に入ると、畑が地図の等高線のように山の上まで耕されています。尾根を越える時などは、すれすれに飛び越えます。左手に雪をいただいたヒマラヤの山々が見えてくると、カメラを向けていっせいにシャッターを切ります。飛行が安定しているので、操縦席から前方の山の写真も撮らせてくれました。
 ルクラの飛行場が見えました。谷から山に向かって、約四百mの滑走路が延びています。かなりの傾斜があり、舗装してありません。崖にぶつかるのではないかと心配するような角度で滑走路に突入し、ガタガタガタと駆け上がって、右手の広場に進入して停止ます。傾斜を利用して、短距離で離着陸できるようになっているのです。9時55分、約45分の飛行でした。
 飛行場の回りには、人垣ができています。帰りの便を待つ人と、仕事を得ようというシェルパとポーターたちです。先に着いたA班の人たちもいます。小さな空港オフィスを通り抜け、空港の上の広場で全員集合です。2827mの日溜まりにいろんな国の人がいます。
 ポーターが飛行場から運んできた荷物を確認します。無事にとどいたようです。12時、大きな荷物は、ゾッキョ(ヤク)の背に積み、貴重品と身の回りのものを入れたサブザックをかついで出発です。今日の宿泊地、パクディンめざして。
 道は、ルクラの町を通り抜け、ドードコシ川の上流に向かって下って行きます。いくつかの部落を通り、道がググッと下るとクズミ・コーラが右手から流れ落ちてきます。橋を渡り、コーラの上流を見ると、白い雪をいただいたクズミ・カングルー(6369m)がそびえています。バッティの庭には、2mほどの茎に7〜8cmのピンクの花を無数につけたダリアに似た花、バルマが咲いています。すばらしい自然の情景にしばし足をとどめてしまいました。

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トレッキングの一日

 「ハロー。モーニング。ティー。」 朝6時、この声でトレッキングの朝が始まります。キッチンボーイが紅茶の入ったアルミのヤカンをもって、起こしに回ってくるのです。テントのファスナーを開けると、500ccほども入るステンレスのカップに注いでくれます。「シュガー? ミルク?」 私は、「ノーシュガー、ノーミルク。」 鈴木氏は、「シュガーワン、ノーミルク。」 温かい朝の紅茶を飲み終わると、今度は、洗面器が運ばれてきてお湯を注いで行きます。キッチンボーイ達は、このために私たちよりも何時間か早く起きて、火を着け、湯を沸かしてくれているのです。朝の気温は、パクディンで5〜7℃、ナムチェでは氷がはるほどです。
 7時から朝食です。食堂テントに集合します。すぐに朝食が運ばれてきます。おかゆ、味噌汁。これらは、日本から持って行ったものです。これにパン、ジャム、チーズなど。漬物はありません。持ち込んだタクアンが2度出ただけです。
 終わるとすぐに、食器が片づけられ、タトパニ(熱湯)とティー、ホットミルクが出てきます。インスタントコーヒーとパックのほうじ茶が添えられて。思い思いに注いで飲みます。
 8時に歩き始めます。シェルパは、私たちと同行しますが、キッチンボーイは、片づけた食器を洗い、カゴに詰め、ポーターは、私たちのザックやテントなどの大きな荷物をゾッキョにつけたり、自分でかついだりして、後から出発します。 この後から出発したキッチンボーイ、ポーター、ゾッキョが、途中で私たちを追い抜いて行きます。
 昼近くになると、ちょうどよい広場に、さっき追い越して行ったキッチンボーイなどが、シートを広げ、お湯を沸かして待っていてくれます。私たちが到着すると、広げられたシートに絞りたてのオレンジジュースを温めたものが運ばれてきます。グッドタイミングです。ちょうどジュースをを飲みほす頃、昼食が運ばれてきます。まことにタイミングがいいのです。昼食は、パンとジャガイモとハムに野菜サラダ。終わるとタイミングよく、またティーが出てきます。そのタイミングのよさには驚かされます。
 昼食時間は、1時間から1時間半位で、その日の行程によって前後します。昼食が終わると、朝と同じように私たちが先に軽いザックをかついで出発します。すると、彼らはまた、荷物をまとめて後から出発し、途中で追い越して、宿泊地に先に着いて、準備をし、私たちを待ってくれるのです。
 夕方、宿泊地に着くと、さっそくいくつかの洗面器にタトパニが出され、手を洗います。そして、紅茶が運ばれ、それにクラッカーなどが添えられています。その間にシェルパが、テントを張ってくれます。ゾッキョにつけられてきた荷物は、中央に集められているので、自分のザックをさがし、テントに取り込みます。これでもう、夕食まで何もすることがありません。夕日をながめたり、絵を画く人、寝る人、さまざまです。
 夕食が出きると、声がかかります。30人位入れる大きなテントが2張り張ってあって、そこに14人づつ入って食事です。最初にスープが出てきます。終わると、ご飯、ダルスープ、サラダなどが出され、その後、缶詰のフルーツが必ずつけられます。そして最後に、紅茶が出て、おしまいです。 トレッキングの一日は、「大名旅行」です。

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最高齢参加者 O氏夫妻のこと

 今回のトレッキング参加者の最高齢者は、O氏、73才で、ご夫婦での参加です。このお2人を見ていると、登山者の老後は、かくありたいと思われてきます。
 ナムチェバザールへの長い登りで、いろいろ話をすることができました。その一端を紹介しましょう。 
 O氏が、登山を始めたのは、3年前の70才になってからだそうです。「この先、何年生きられるかわからないので、悔いのない生活をしたい。」 それまでは、国内の観光地めぐりをしていたそうですが、バスや電車で観光地まで行き、また、電車やバスで帰るということに満足しきれなくなったようです。
 何がきっかけで登山をするようになったかは、聞きもらしてしまいました。登山をはじめてからは、一直線にのめり込んでしまったようです。国内の山々には、北海道から九州まで広く足をのばしているようです。そして、今は、海外登山・トレッキングに情熱を傾けているとのことでした。
 製材所を経営しておられたようですが、その仕事は、息子さんに任せてしまい、「日常の生活は、息子が面倒を見てくれるので、夫婦2人分の年金を、全部登山に使っている。年金は残してもしかたない。」というのです。
 すべての生活が登山中心になっているようで、「家にいるときは、毎朝、1時間ほど歩いている。その後、市の老人福祉施設に行って、水泳をやっている。」というように日常のトレーニングにも力を入れているのです。
 この清掃トレッキングで、「今年、ネパールにくるのは3回目」と話されていましたが、何の気負いもなく、ひょうひょうと歩いている姿は、風格を感じさせます。今回程度の標高では、高山病など無縁のようで、また、山の歩き方にもよく慣れていて、参加者中、一番強いのではないかと思ったぐらいです。 登山の計画は、奥さんによれば、「じいちゃんが、パンフレットなどを見て、場所を決め、『今度ここへ行くぞ。』という。全部じいちゃんに任せてある。」と、すっかり頼りきっている様子です。O氏は、いつも奥さんのことを見ていて、危険箇所や急な下りなどになると、いつのまにかそばにいって手を引いてやっているのです。このお2人の姿は、参加者に夫婦というもののあり方を教えてくれたように思います。
 O氏夫妻の海外登山計画は、この後も続くようで、「この年末年始には、グアテマラの4000m峰の登山に出かける。」といっていましたし、「目標は、アフリカのキリマンジャロ」ということで、今回のトレッキング参加も「キリマンジャロに向けて」のトレーニングのいっかんでもあったようです。O氏夫婦の海外登山はすべて、この清掃トレッキングを企画した旅行会社を通してのようで、その努力を見ている同社の添乗員は、「この2人を見ていると、どうしてもキリマンジャロに登らせたいという気持ちになる。」といっていましたが、私もこの添乗員に同感です。

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シェルパの街ナムチェバザールへ

 15日、パクディン(2652m)からナムチェバザール(3446m)に向かいました。
 グミラを過ぎる頃、右手奥に白い山が見えてきます。タムセルク(6608m)です。 ベンカールでドードコシを渡って、左岸に行き、坂を下ると、右手からキャシャル・コーラ(コーラ=小さい川)が落ちてきます。橋のすぐ近くに水車小屋がありましたが、鍵がかかっており、中を見ることはできませんでした。
 急な坂をひと登りすると、モンズー。そして、ジョサレへと続きます。このジョサレには、チェックポストがあって、サガルマータ国立公園の入園料、650ルピー(約1950円)を支払います。係官は、28人分の入園料を数えるのに苦労していました。ゲートを通して、ナムチェの奥にそびえるクンビラ(5761m)が見えます。
 手続きが終わり、ゲートを通り抜け、急な坂をいっきに川底まで下ります。つり橋がかかっていて、右岸へ。しばらくしてもう一度左岸に渡ります。このあたりの河原は、ちょうど昼食時間のためか、たくさんの人がいます。少し上流に私たちの昼食場所も確保されていました。
 昼食後、河原を少し進むと、前方、ドードコシとボーテコシの合流点の上、数十mのところにつり橋がかかっているのが見えます。長さも数十mはありそうです。ゾッキョの群れとともに坂を登って橋のたもとに着くと、なんとも迫力のあるつり橋です。風でゆれる橋を調子を取りながら渡ります。対岸には、コンクリートで固めた急な下り階段が待っていました。こういう所はゾッキョも苦手なようです。
 さあ、いよいよナムチェへの登りです。この合流点がが約2800mですから、約650mの標高差を約2Kmの道のりで登ります。相当の急登です。シェルパ達は、「ビスターリ、ビスターリ」と忠告します。「ゆっくりと」という意味です。この坂をビスターリで登らないと、高山病にかかり易いということを知っているからです。途中、ほんの一瞬、サガルマータが顔を見せてくれる所がありました。峠の茶屋で一服し、さらに「ビスターリ、ビスターリ」。
 傾斜がゆるくなると、もう、ナムチェはすぐそこです。右に曲がると、ナムチェのホテルが見えてきました。街に入ってすぐ、サーダーが手招きしていのでついていくと、ホテルの中の暗い階段を下って、外に出ました。そこに幕営地がありました。急傾斜地に建っているホテルは、通路から見ると3階建てですが、裏に回ると4階建てになっているのです。そして、この地下1階にあたる部分が、トレッカーの炊事場になっているのでした。
 ナムチェは、半割のすり鉢のような狭い盆地に数十戸のホテルが建っています。人口は、約200人と推定しました。ここの広場では、毎週土曜日にバザール(市場)が開かれるので「ナムチェ・バザール」となったそうです。メインストリート(とはいっても、数m幅の通路)には、羊毛製品やみやげ物を売る店が二十軒ほど並んでいて、銀行もあります。
 この辺り一帯には、シェルパ族が住んでいて、特に、ナムチェは、「シェルパのふるさと」といわれています。彼らは、2000m〜4000mの高地で生活しており、ヒマラヤ登山の初期の頃に、登山隊が、彼らを道案内や荷物運びに雇ったところ、たいへんな力を発揮し、登山隊を支えてくれたのです。そうしたことから、道案内人のことを「シェルパ」と呼ぶようになったといいます。

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高山病あらわる

 シェルパたちに「ビスターリ、ビスターリ」といわれて、ゆっくり登ってきたつもりでしたが、まだまだ速かったようです。日本ならば、五百mの高度差は約一時間の登りです。
 高山病のあらわれ方は、人によって違います。
 他の参加者の様子を見ていると、食欲不振におちいっている人が何人かいるようです。風邪をこじらせてしまった人もいます。
 シェルパはもちろんなんともありません。田部井淳子さんや添乗員の朝重氏もなんともないようです。Oさん夫妻も大丈夫のようです。何度かこの高さを経験した人には、高山病は、無縁のようです。
 私の場合、90年の天山の経験では、4000m前後で頭痛がし、激しく動くとめまいがしたり、酒に酔ったようになることがわかっています。今回は、ひどく後頭部が痛みました。この後頭部の痛みは、何かしている時は感じないのですが、じっとしているとでてきます。
 肩こりのひどい人もいました。そこで夕食後のひととき、キッチンテントの中は、指圧教室にはや変わりです。先生は田部井さんと朝重氏。高山病は、血液の循環が悪くなっていることも原因の一つですから、これはかなり効果があります。私も肩から後頭部にかけてもみほぐしてもらいましたが、「いっきに血が流れた」という感じで爽快な気分になりました。
 標高が高くなると血液が濃くなり、それが循環を悪くして高山病のもとになるともいわれています。それでできるだけたくさんの水分を補給するようにといわれています。朝一番のティーも、折々に出される大きなカップのティーも、その対策だったのです。その上に水筒にいれた1〜2リットルの水を飲み干すようにといわれていました。
 時期が乾期ということもあって、これだけ飲んでもだんだん小便の回数と量が少なくなっていきます。これが注意信号なわけです。

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サガルマータの見える丘
ミューゼアム
日本人の経営するエベレストビューホテル

 16日、高度順化を兼ねて休養日です。でも何もしないわけではありません。
 サガルマータの見える丘へ行き、それからシャンボチェの飛行場(3800m)まで登って、少しでも高さに慣れようというのが今日の日程です。
 いつものように朝食をとった後、メインストリートの途中から東に曲がり、急な坂を登って行きます。行く手に真っ白な帽子をかぶった山があらわれてきました。アマダブラムです。
 右手の広場から威勢のいいかけ声が聞こえてきました。陸軍のキャンプ場があって、訓練をしているのです。ネパールの軍隊は、第二次世界大戦で勇名をはせたグルカ兵の末えいです。
 訓練風景を横目に通り過ぎると広い広場にでます。突然、目の前に白い山々が広がっています。先ほどのアマダブラムが全容をあらわし、そこから左に、ローツェ、サガルマータ、少し離れてヌプツェがドーーーンと鎮座しています。一同、しばし声もなくたたずみ、圧倒する山々に見入っていました。少しするとにぎやかになります。あの山はなんだとかかんだとか。ローツェをサガルマータと見誤っている人もいます。サガルマータが主峰で、ローツェが東峰、ヌプツェが西峰です。何度も何度も山の名前を聞いている人もいます。思い思いのポーズで記念撮影をする人も。
 サガルマータ国立公園のレンジャー数人もでてきて仲間に加わりました。私たちのリーダーが田部井淳子さんと知って、大喜びです。彼女は、どこへ行っても「有名人」です。一緒に写真におさまっていました。
 陽が上がると、小春日和です。その日溜まりの中で思い思いに時を過ごしました。
 この丘のすぐ下に、博物館があります。サガルマータ登頂の様子や使った装備などが展示されています。また、この近辺の動植物などの写真が展示されていました。ちょうど上高地のビジターセンターに似た感じです。
 いったん丘を下り、明日通るタンボチェ方面への道を横切り、シャンボチェへの登りにかかります。これもまた急な登りですが、やはり生活道路で、行き交う人も多く、荷を積んだゾッキョも息を切らせて登って行きます。花の写真をとったりして「ビスターリ」。
 あがったところは、広い台地になっていて、ブルでならした飛行場がありました。平らな石などに腰をおろし、日光浴を楽しんでいると、飛行機の爆音がし、それが旋回して私たちの方に向かってきます。頭上をすれすれに飛んで滑走路に着陸しました。私たちが休んでいたのは滑走路の端だったのです。
 この飛行場は、宮坂さんという日本人が経営するエベレストビューホテルへの客を運ぶのが中心です。カトマンズからいっきにここ3800mのシャンボチェに飛んできて、ホテルでサガルマータを見て、翌日早々に戻るのだそうです。そうしないと高山病で身動きがとれなくなるからだそうです。そうまでしてサガルマータを見に来るのは日本人だけではないようです。サガルマータは、やはり、世界の最高峰です。

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HAT−Jナムチェ集会
積極的なナムチェ

 11月16日、HAT−Jナムチェ集会が開かれました。
 ナムチェでは、ゴンパ(日本でいう「鎮守様」)の改築をしており、ちょうどその竣工式が、この日の午後行われるという話がはいってきました。そして、その式に、タンボチェのリンポチェ(高僧)が来るというので、タンボチェでの集会とドッキングしてやろうということになりました。
 ゴンパは、村の一番高い所にあります。メインストリートを抜け、ジグザグの道を登って10分ほどもかかって、ようやく到着です。集会に先だって、改築されたゴンパの中を拝観させていただきました。立派な仏像が安置されています。その顔が、日本の仏像とそっくり(日本が真似をしたというのが正しい)です。
 ゴンパの広場には、もう村人たちがたくさん集まっていました。中央の祭壇には、リンポチェが座っており、その前に村長や村の有力者が座っています。シェルパの話では、リンポチェが来たからでてきたという有力者が何人かいるとのことでした。どこにも似たような話があるものです。
 集会では、最初にラクパ氏がHAT−Jがここにやってきた理由をネパール語で説明しました。これは、日本語への通訳はありません。日本人はみんな理由を知っているからです。
 リンポチェが最初に口を開きました。ラクパ氏が通訳した内容はおおむね次のようです。「話を聞いたら、いいことのようです。」「この付近は、前は人口も少なかったのでゴミも少なかった。」「ヒラリー、テンジン以後、くる人が多くなった。」「本当のお客様は、ゴミを捨てていないと思うが、多くの中にはいるのではないかと思う。」「ゴミのことについて、ナムチェでも掃除をするためには、Comitteeが必要だ。」「掃除にもいろいろ問題がある。ゴミについても研究している。」「ナムチェも以前よりはきれいになっている。」 次に立ったのは村長です。サングラスをかけた美男のこの村長さん、いっきに女性ファンをふやしました。彼の発言は次のようです。「HAT−Jの方達がナムチェにきていただいたことを感謝する。」「村内のゴミは、7人で毎日運んでいる。」「エベレストBCは、2回掃除にいってきた。」「できるだけ毎日掃除をするが、そのためのお金は少ない。」「デポジットしておいて、ゴミを持ってきたら返すという方法もあるが。」
 国立公園のレンジャーの発言は、次のようでした。「HAT−Jから勉強させてもらうのがいい。」「3年前からWWSとやっていることは、村長がはなした。」「今回のあなた達のやり方−−自分のゴミを持っていくというのは、勉強になる。」「シェルパやポーターにもこのシステムを教えていきたい。」「この辺りだけでなく、全世界でこういうシステムをつくるのがいい。」「カトマンズのトレッキング会社にもやらせないと。」 田部井淳子さんのあいさつは、次のような内容でした。「多くの方からおいでいただいてありがとうございました。」「1300人のHAT−J会員のうち、28名がここにやってきました。」「私は、18年前にサガルマータに登りました。」「その時と比べるとナムチェも変わりました。」「ネパールもナムチェも好きなので何かしたいと思っています。」「ゴミの問題を世界の人に伝えていきたい。」「みなさんに教えていただきたいことがたくさんあります。」
 次に質疑応答で心に残ったことを列記します。「ゴミ問題について、毎年、会議を持ち、住民を教育している。」「村内に3ヶ所ゴミを埋めるところがある。住民はその場所を知っている。」「燃えるものは燃している。野菜くずなどは牛に食べさせる。」「持ち込まれるゴミで一番困るのは、ガラスビンと電池だ。」「ガラスの破片で、人も動物もケガをする。」「電池は、処理施設がない。埋めても毒が流れ出す。」「観光客がたくさんくると、商売ができていい。」「反面、ゴミがふえるのと、インフレになるのが問題だ。」「燃料には、牛フンを使っている。ケロシン(灯油)は使っていない。」「ターメに発電所ができれば、状況が変わる。」

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タンボチェへ

 今日(17日)は、ナムチェからタンボチェに向かいます。
 昨日と同じように、メインストリートを通り抜け、丘に登ります。この丘の入り口にある国立公園事務所によって、許可証のチェックを受けます。アーミィキャンプの手前から、左の道に入ります。
 水平道をしばらく行って、カーブを左に回り込んだとたん、アマダブラム、ローツェ、サガルマータが、昨日よりも一回り大きくなって広がっています。振り返ると、谷をはさんで、昨日ヒマラヤの高峰に魅せられたあの丘があり、その一角に博物館がたたずんでいるのも見えます。休憩している間にも、いろんな国の人が行き交います。シェルパの後に従うトレッカー、荷物を運ぶ地元の住民、ゾッキョを追う人・・・。 道は、等高線に沿って、多少の起伏を持ちながら、谷と尾根をめぐっています。そして、谷から尾根の突端に出た時に、サガルマータを盟主とする山々があらわれ、それが一回ごとに大きくなっていくのです。カンテガから西に派生する尾根の末端の台地に、めざすタンボチェの僧院が見えてきました。
 道が少し下りになって、トラシンゴです。建物の前に広げられたみやげ物を物色します。道はさらに下って、ラウシローサに着きました。帰りの幕営地は、この辺りになるだろうとのことです。
 さらに下って、つり橋を渡るとプンキテング。ここで昼食です。石を積んで斜面を平にした所に、シートが広げられていました。11月の暑い陽差しを受けて、ゆっくり休みます。
 さあ、いよいよタンボチェへの登りです。約500mの標高差。太いラリーグラス(石楠)と赤樺、それにオオシラビソのような木の混じった中を、ちょうど十二曲のように、右に左に折れて登っていきます。ここでも「ビスターリ」です。高度を稼ぐと、道は緩やかな傾斜の直線道になります。もうそろそろ稜線かなというころ、小鳥のさえずる潅木の中で突然「バタバタッ」と大きな鳥の羽音がしました。通りかかった人に聞くと「ダーペー」といいます。一瞬見えたその姿は、孔雀のような冠をつけ、青と緑の羽、背丈50cmほどの美しい鳥です。逃げ足が早く写真は撮れませんでした。
 タンボチェのゴンパの門が見え、到着です。門をくぐると、ゴンパの前は、広い草原になっていて、周辺にテントが張られていました。まだ、何人も来ていないので、散策に出かけました。あの「ダーペー」をカメラに納めたい一心です。登ってくる仲間に「バードウォッチングだよ」といいながら、先ほどの所までもどり、さらに潅木の林の中に入って見ます。いたいた。一羽の立派な「ダーペー」が悠然と立っています。さっそくカメラをむけ、シャッターを押しましたが、「カ・・シャ・・ン」「アッ、だめだ」もう、夕闇が迫っていて、見た目以上に潅木の中は暗かったのです。あっという間に走り去ってしまいました。
 ゴンパの裏手にいってみました。トレッカーズホテルがあります。中をのぞくと、何人もの人が、バーナーの回りにいました。その先に続く尾根には、カゴが伏せてありました。植林したのでしょう。中には、小さな木が一本づつ植えられています。突然、目の前に「ダーペー」が。余りの突然さにあわててしまい、写真を撮る間もなく、悠然と羽を広げ、サーーッと滑空していきました。広げた翼長は1mをはるかに越えます。 さらに先へ進むと、加藤保男氏の慰霊碑がありました。一月ほど前に建てたばかりのものです。合掌。イムジャ谷の向こう、夕暮れの中にサガルマータとローツェが鎮座していました。

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高山病、その2

 タンボチェは、ナムチェよりさらに400mほど高いので、いっそう高山病にかかりやすくなります。私も、昨日にもまして後頭部が重くなっていました。ここで3人が重症の高山病になってしまいました。
 吉田さんは、プンキテングからの登りの途中で具合が悪くなったそうです。タンボチェにあがってきたのですが、もう何もできない状態でした。顔が明らかにむくんでいます。小便がでないといっていました。 石田さんも、途中から調子が悪くなったようです。
 曽我部さんは、テントに入るまでは何にもなかったそうです。テントの中で仲間と話していて、気分が悪くなって外に出て、みんなもどしてしまったといっていました。
 この日の夕方、私のテントでは、寒くなってきたので暖房しようと、鈴木敬吾氏がガスボンベを取り替えていたのですが、これがうまくいかず、ガスが吹き出し、テントの中はもちろん、付近一帯もガス臭くなってしまいました。ボンベは、シェルパがうまく処理してくれたので、火災などにはなりませんでした。
 曽我部さんの場合は、このガスの臭いがきっかけになったようです。
 吉田さんと曽我部さんをガモーバッグに入れることになりました。このガモーバッグというのは、人間1人がすっぽり入る袋で、足踏みポンプがついていて、中に空気を送り込みます。そうして中の気圧をあげて、あたかも低地に降りたかのような状態をつくる装置です。シェルパが一生懸命にポンプを踏んでくれました。2時間も入っていたでしょうか。
 こうした状況で出された田部井淳子さんの指示は、「明日、重症の3人は、ここからそのまま下る。他の人は、パンボチェまで往復する。」でした。これは、適切な判断でした。
 翌日、私たちがパンボチェに向かった後、3人の高山病患者、吉田さんのご主人、添乗員の5人が、この日の宿泊地へ向けて、一足先に下っていきました。 夕方、私たちがラウシローサのテントサイトに着いた時、曽我部さんは、もうすっかり快復していました。明るい元気な笑い声をあげて、仲間の中に入ってきました。
 しかし、石田さんは、テントの中でシュラフにはいって寝ていました。ここの標高では、まだだめなようです。吉田さんも同じような状態でした。
 次の日になっても吉田さんと石田さんは快復せず、強力に背負ってもらうことにしました。酸素吸入をしながらなので、その姿の痛々しいこと。 結局、この2人が正常にもどったのは、カトマンズにもどったときでした。高山病は、その症状があらわれているときは、本人も苦しいし、回りも大変ですが、低いところにもどって治ると、何もなかったかのようになってしまいます。

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パンボチェのゴンパ
盗まれた雪男の頭皮

 11月18日、今日が行程の折り返し点です。パンボチェまで往復して、ラウシローサまで下ります。
 タンボチェから再びドードコシに向かって下ります。下りはラリーグラスの林。日陰の水たまりは、ツルツルに凍っています。氷点下まで下がったのでしょう。少し行くと、放牧地のような広場にでます。この辺りまでくると、深かったV字谷も少し緩くなり、道が平坦になってきました。朝日があたり始めます。樹林が続き、小鳥がたくさん鳴いています。新築したばかりのホテルがあり、見ると、窓はガラスではなくビニールシートでした。家の善し悪しは、日本では、3LDK、4LDKなどといって部屋数が基準になっていますが、ネパールの山地では、窓の多い家がいい家なのだそうです。それは、木材が少なく、南部やインドから担いで運んでこなければならず、ガラスはもっと手に入りにくいからなのだそうです。「ところ変われば品変わる」評価の基準も変わるのですね。
 つり橋を渡って右岸へ。日本人の別パーティに出会いました。徐々に登りになります。路傍の石に「FREE TIBET」などと白ペンキで書かれています。中国国内から逃れてきたチベット独立運動の活動家が書いたのでしょうか。
 部落の手前に潅木混じりの草原が広がっています。あまりの眺望の良さにしばらく休憩です。アマダブラムは、紺碧の空に特徴のある真っ白なピークを突き上げています。見える位置も、前方だったものが右横に変わってきています。茶色の枯れ草の中に、小さな花が咲いていたりします。暖かい国の晩秋とはこんなものなのでしょうか。
 パンボチェの村も、急斜面にはりついていました。村内には、比較的樹木が多く、穏やかな感じがします。その木々の下で、女性が大きなカブをムシロの上に広げていました。 パンボチェの僧院は、アマダブラムをバックにして建っていました。ここは、「雪男の頭皮」があるということで有名だった僧院です。「有名だった」と過去形にしたのは、名物だった「雪男の頭皮」は盗まれてなかったからです。92年の春に日本でテレビ放映したのだそうですが、その後でなくなってしまったとのことです。
 急な階段をギシギシ音をたてて登ります。薄暗い堂内には、ろうそくが灯され、その灯に浮かび上がるようにたくさんの仏像が安置されています。シェルパに言われるままに、ひとりづつ、手を合わせ、そしてひざまずいて礼拝をしました。僧の読経は、日本のそれと同じ調子です。ただ最後に「ナンマンダブ・・・」がないだけです。
 村はずれまで行けば、標高4000mになるということで、何人かがそちらへ行きました。
 タンボチェまでのもどりは、同じ道をたどるのでだれも気楽な気持ちです。ワイワイガヤガヤ。口の方が足よりもよく動く人もいます。それでもタンボチェへの登りにかかると、口数が少なくなり、やがて無言になってしまいます。
 タンボチェは、すっかりテントが片づけられ、いっそう広々として見えました。田部井淳子さんと並んで個々に写真を撮り、みんな集まったところでサガルマータをバックに記念撮影。
 この後、ゴンパを見学しました。まだ、建設途中のため、外観はたいへん鮮やかですが、中では、職人が作業をしていました。二階にあがると木切れが足の踏み場もないほど散らかっています。そんな奥に板で間仕切がしてあります。隙間から中を覗くと、大きなお釈迦様が安置されていました。これも製造中の様子です。
 昨日、「ビスターリ、ビスターリ」といって登った道を、今度は砂煙をあげて、いっきに下ります。ゾッキョの群れと一緒にいると土ボコリがひどいので、追い越していく。ふたつの川の合流点プンキテングまで下り、行きに昼食をとったところで小休止。後続を待ちます。谷間のためか、夕闇が迫っている感じです。
 休んでいると寒いので、先に行くことにします。今日のテント場は、この先30分くらいだろうとのことです。原田さんと新聞記者が一緒です。タンボチェの手前から前後してやってきた僧の親子も一緒です。右に回り込み、橋を渡ります。そして、緩やかな登りが始まり、時々、こんな急なところを通ったかと思うような坂を登ったりして、ようやく今日の宿泊地に着きました。最初のバッティのすぐ上にテントが張ってありました。
 キャンプ地は、一番下がテント村、次の段がゾッキョ、その上の段に食堂テント。食堂テントへ行くには、キッチン小屋を回って行かなければなりません。

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学校教育
学校へ行かない子供たち

 トレッキングの途中でたくさんの子供たちに出会いました。
 子供たちは、着ているものは決していいものではありません。食べ物もそうです。それでも彼らは、元気いっぱい飛び回っています。街で遊ぶ子供たちの姿が見えない日本とは大違いです。 ルクラでは、暗くなっても外で遊んでいて、テントにも遊びにきました。
 子供たちの目は、キラキラ輝いています。外観ではわからない心の清らかさがあらわれているようです。
 子供たちは、たいへんひとなつこく、私たち外国人にも近寄ってきます。ここであまりのかわいさに、頭の一つもなでてやりたくなります。これが日本人の人情というものでしょう。しかし、この国では、「頭をなでる」ということは、ごはっとです。「おさえつける」「見下す」という行為なのだそうです。それがわかっていても、ついつい手がでてしまいます。特に女性は。
 チェックポストで、英文のチラシをもらいました。これにはおおよそ次のようなことが書かれていました。「子供に、アメやチョコレートなど甘いものを与えないでください。この辺りには、歯医者がいません。虫歯になると飛行機でカトマンズまで行って治療しなければなりません。この負担は、彼らの家族にとってたいへんな出費です。」 貧しそうな(本当に貧しいかどうかは別です)子供を見ると、すぐに何かやりたくなるというのも日本人の悪いクセです。善意ではあるのですが、現地の人たちには役にたたないこともある見本のようなものですね。
 ナムチェでは、子供たちが数人、大きな声で本を読んでいるのに出会いました。聞けば、小学校だそうです。両側に男の人が2人、先生です。建物はなく、青空のもとでの授業です。雨が降らないからいいのでしょうが。以前行ったランタンでは、教科書がなかったのを思い出しました。
 このナムチェで数人の生徒というのは、少なすぎます。いろいろ話を聞きますと、学校に行っていない子供がたくさんいるということです。「学校へ行くくらいなら、家の仕事を手伝え」という親がまだまだいるのだそうです。昭和初期の日本の状況になんと似ていることでしょう。
 ナムチェの中学生は、3800mのクムジュンの学校まで行きます。毎日400mもの登り下りを往復しているのです。もちろん、歩いて。これは、日本では、とても考えられないことです。

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HAT−Jルクラ集会
ルクラの悩み

 11月20日、トレッキング最後の日です。行程は、ルクラまで。
 幕営地から出て左折するとすぐ、大きな川が左手から落ちてきています。まだ、陽があたらず寒い。
 今日は、何故か、ルクラ方面から来る人が多く、みんな荷物を担いでいます。肉を担いだ人、ニワトリ、革、ミカン・・・いろんなものが通り過ぎていきます。後で聞いたところ、明日、ナムチェでバザールがあるため、商売に行く人たちとのことでした。
 ベンカール、パクディンと見覚えのある部落を通り過ぎて行きます。部落ごとで休みをとるのですが、最初に着いた人と最後に着いた人では、場合によっては、20分近くも違ってきます。クズミコーラを渡ると、ルクラまでの長い緩やかな登りになります。余りにも前後で差がついてきたので、先の者は待たずに行くことを、田部井さんに了解してもらいに行く。こんな時、無線機が持ち込めれば楽なのですが。15人ほどが先行したのですが、それも2分してしまいました。
 ルクラの町に入ると、がぜん活気があります。子供達が無邪気に遊んでいて、何かふるさとに戻ってきたような感覚です。町並みを抜け、飛行場をめざします。飛行場の上の広場に昼食の用意がされていました。パンがとてもおいしく、大根の上にトマトと玉ねぎをのせたものもなんともおいしいものでした。
 全員が集まったところで、飛行場周辺の清掃をすることになりました。HAT−Jの本領発揮というところです。この飛行場周辺、ゴミのあることといったら。ビニール袋を片手に、サーダーもシェルパもポーターも参加してのゴミ拾い。ついに周辺の家の子供達も出てきて仲間入り。これはたいへんうれしい出来事でした。
 清掃の後、広場の上のホテルの庭で、HAT−Jルクラ集会が始まりました。この集会は、このトレッキング最後の集会です。この集会には、ルクラの村長、ヒマラヤクラブの会長、学校の先生達、田部井さんとサガルマータに登頂したアンツェリン氏など14名が出席してくれました。
 村長ダワツェリン氏の話。「ルクラは、有名なところだが、たくさんの問題がある。ゴミの問題もそのひとつだ。毎日掃除をしているが、たくさんの人がやってくるので、掃除しても追いつかない。今回HAT−Jが来てくれたが、昨年は、ニュージーランドの隊が来て掃除をしていった。彼らは、ヒマラヤクラブに25万ルピー寄付していった。このお金は、使わずにとってある。毎日人をいれて掃除をすればよいのだが、ひとり一日100Rとして、一年で36000Rにもなる。このお金がない。ゴミの問題は、人の問題だ。いい方法があれば教えてほしい。実行する。」
 華園さんの質問。「日本では、子供が月1回とか、掃除しているが、ここでもできないか。」
 学校の先生の回答。「今の高校は、3年前に始まったばかりだ。それで、まだよくできていない。掃除も大切だが、木のことの方がもっと大切だ。森を再生するために、新しい木を植えている。」
 鈴木昭一氏の発言。「われわれが飛行場の周辺のゴミを拾っていたら、子供もまねをしてゴミを拾っていた。大人が率先してやれば、子供もやりだすのではないか。」
 村長の答。「そういうことは、以前からやっているつもりだ。 ここは、小さい村だ。ここのゴミの問題は、ここの人だけの問題ではない。外国人、ネパール人もたくさん来る。ごみ箱を3つ作ってあるし、トイレも2つある。ボトル。壊れたボトルが問題だが。航空会社に頼んで、カトマンズへ戻るときにおろしてもらっている。ビールビンが多いが、これは金になるので、集めている。」