2009年07月10日
富士山
第三チーム富士山合宿
 
富士山での写真
 
10日   久須志神社 5:45-6:18
自宅 7:10 折り返し 6:33
吉田口五合目 11:30-12:30 降り口 6:52
六合目 13:00-13:08 本八合 7:20-7:37
七合目 14:10 慰霊碑 9:43-10:17
八合目太子館 15:30 六合センター 10:30
11日   五合目ターミナル 11:05-11:40
八合目太子館 3:00 富士浅間神社 12:20-12:40
本八合 4:10-4:20 富士山溶岩の湯「泉水」 12:50-14:30
九合目 5:00-5:10    
 
 
 信大学士山岳会も信州大学創立60周年記念事業に取り組んでいる。
 「学士山岳会60周年記念事業」(PDF)
 20090330 信大60周年記念海外登山

 私が参加する「第三チーム アンナプルナ山群トレッキング隊」では、これまでも「事前訓練」や「合宿」を行ってきている。今回はその最終合宿ともいうべき「富士山合宿」が行われた。「富士山に登ってみたい」という妻を同行して参加した。

10日
 10日は、梅雨明けしたはずの梅雨前線が日本海から南下してきて、家を出る時から雨。小淵沢までの間、時折激しく降る雨に、「雨具を着けての登山だな」と心を決めていた。それが小淵沢を過ぎると、風は強いが雨はやんでくれた。見えるはずの富士山は雲の中。
 富士スバルラインに入ると、木々の緑が鮮やかだ。妻が歓喜の声を上げる。五合目駐車場には「空き」があった。無料休憩場にほとんどの参加者が集まっていた。総勢13人とのこと。信大医学部との連携で調査が行われることになっていて、取り付ける機器の説明があった。
 六合目の「安全指導センター」までは順調だったのだが、そこからの登りにはいって急に睡眠不足がたたったきた。今朝は4時に起きて『しんぶん赤旗』の早朝配達をし、そのまま運転してきたので、その影響が一気に出てきたようだ。少し遅れ気味になるが、眠気をこらえて必死についていった。強風が砂を巻き上げ、容赦なく吹き付けてくる。
 八合目の太子館に着いたときは、実のところ「ホッ」とした。夕食を終えると、まさに「爆睡」。


11日
 早朝2時半起床。3時発。相変わらず風が強い。少し雲は薄くなったようだ。「ご来光はダメだな」といいつつ、「少しでも」という期待も捨てていない。登山者と不思議な生きものだ。
 土日に登る人は多いのだろうが、我々のように金土で登るのは少ないようで、名物の「大渋滞」はなく、スムーズに久須志神社の前に出た。気温は2℃という。薄手の手袋だったので指が冷たい。特に右手。オーバーミトンを取り出す。朝食。
 「最高地点の剣ヶ峯へ」と時計回りで行くことに。ところが風はますます強くなり、立っていられない状態に。厳冬期にピッケルで風に耐えていたことを思い出した。それで結局、剣ヶ峯は断念することになった。近くの岩を見るとツララがびっしりと生えていた。
 戻って、下山前に「お釜を見てこよう」と、覗きに行くが、ここも強風は変わらない。写真を撮るのもそこそこに、下ることになる。富士宮口へ下るメンバーに見送られ、下山路を下る。風は格段に弱くなる。火山砂?砂利?一歩踏み出すとザラザラと流れる。そんな道を右に左に、ジグザグに降りていく。
 それにしても富士山という山はガラガラで植物はほとんど生えていない。少し下へ来てオンタデとフジハタザオが出てきた程度。イワツメクサもあったか。本当に「新しい山」という感じだ。
 陽が当たりだし、暖かくなる。長い下りだった。六合目の指導センターまで降りれば、グッと緩やかになる。
 ツバクロ沢を超えた所に馬がいた。高い金を取って乗せているのだ。ここで30年前に亡くなった片岡格氏の慰霊祭を行った。同じ信州大学でも上田繊維は他の学部とあまり交流がなかったので知らなかったが、「1979年11月24日、ガネッシュ遠征の強化合宿時に遭難した」のだと判った。氏を知る人たちの目に光るものがあったように見えた。春寂寥を聞いていると、こちらも胸に迫るものを感じた。
 五合目の休憩所で身に着けていた計測機器を回収。富士浅間神社北口本宮で安全祈願し、その後温泉で汗を流した、皆と別れた。


 富士山は、1990年に旧ソ連のハンテングリに挑戦する際、2度登って以来である。その時もそうだったが、「富士山はシーズン直前に登る」に限る。