1966年03月31日
信州大学上田山岳部
春山合宿−本院ダイレクトアタック隊
2人
 
BC      
    ビバーク地点
 
19660331 アタック隊 ルート図
 
3月31日 晴
 アタック隊 岡村、佐々木
 前夜の総括反省会で、我々がAttack隊に、Support:森田、河原、杉本、Tent Keeper:轟と決定。午前3:00発の計画を立てた。
 徹夜で天気予報を聞き、又、天気図をとってくれた轟をはじめ1年生全員1時起床。我々の起床する2:00までには、すでに飯の用意が整っていた。皆の暖かい援護の意気が何より我々に安心感を抱かせ、、いつしか期待に応えようとする気持ちに変えさせていったのだった。
 出発3:15。あたりはまだ暗い。空には星が瞬き、今日は絶好のAttack日和りだ。前日のラッセルの跡が、闇の中に延々と連なり、やがて消えていった。アイゼンも何と心地よく効くことであろう。我が心は早くもAttack西高を夢み、胸の高まりを覚えるばかりだ。体調もベスト。雪面より70cm程低い舗装道路を快調にとばし、いよいよラッセル工作の終了点に来た。
 前日の大雪は、梢を執拗に圧迫し、あわれ先端は雪中にあり。ピッケルでその木枝をつつく。ドサッ!バサリンコ。あゝラッセルがしづらい。ある時は胸までつかり、又ある時はサルの木登りをした。
 ようやく4:45。予定地点に着き、先ずはキジを打つ。御来光だ。あゝマブシイ。照らし出されたP1の何と美しかったことか!我々はあの感激を忘れない。
 6:00。トランシーバーの感度良好。交信の声も明るい。
 6:30。いよいよ本番である。最初からラッセルは胸までつかる。28日、恐る恐る退却した地点が、今日はさほど気にならぬ。雪が割合締まっており、安心する。
 第2岩陵のアップザイレンは、約12〜33m。絶壁である。雪と風に加工されたザイルでの下降にやや不安を覚える。下りると又、第3岩陵のラッセルだ。第3岩陵の窓に出るところがヤバイ。本日のヤマ場はこの4〜5mの登りにあるのだ。岩陵の裾を巻くトラバース。下はスパッと切れ落ちている。確保点がないので、気休めにボルト1本を打ち込む。かつてGDMの丸山氏が遭難した。その地点もおそらくここであろう。ここを乗り切るためフィックス約10mを残す。・・・・・・ヤッタゾ!この瞬間、我々はダイレクトのAttack成功はほぼ間違いないと思ったのであった。赤旗をなびかせると、下にモレーヌの赤布がたれている。未だこの地点通過は我々を含めて4・5名しかいないことであろう。
 全身ズブヌレで稜線に出たのは、14:00。第1段階を突破した満足感よりもむしろ恐怖心だけが残った。いよいよ雲行きが怪しい。相当体力を消耗している。偵察○○は、本院のピークまであとわずか100mであろうか。だが雪庇と岩陵との登攀はどうみても不可能だ。○○○○いかSupport隊の了承を得、ビヴァークと決定する。(ビヴァーク)これは計画的なビヴァークであった。10日程前にやったモレーヌのビヴァーク跡がはっきり残っている。風も全く吹き付けない。何と快適だろう。しかし、喜ぶのは早すぎた。メタの熱で雪洞が解け始めたからたまらない。乾かそうとした衣類が逆に湿気をおびる。疲労のためか食欲が全くない。出まかせに歌をうたい、エロ話をし、不快感、孤独感から何度も脱しようと試みたのだが・・・。夜は未だこれからが長い。話のタネもつき、我々は沈黙のまま夜明けを待つのだ。
 
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